【櫛田神社エリア】伝統・中洲ラーメン屋台街の歴史

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昔から地元・博多の氏神様を祀っていることで有名な櫛田神社。地元の人たちからは『お櫛田さん』の相性で慕われているのが可愛らしいですが、豊臣秀吉が戦国時代に再建に関わっている由緒正しい神社でもあります。

そんな歴史溢れる櫛田神社、実は福岡市博多区のラーメン屋台街として有名なエリアにあることをご存知でしたか?

『博多=とんこつラーメン』と言ってもいいほど、とんこつラーメンが代名詞として有名な博多ですが、その中でもラーメンの屋台が並ぶ中洲は『西日本No.1の繁華街』として隆盛を極めています。

でも、『ローマは一日にして成らず』という諺があるように、この称号を得るまでには長い道のりや人々の歴史があるんです。

櫛田神社から徒歩5分。夕方にお参りを済ませたら、早速、日本カジノレビューを片手にラーメンを美味しく食べれる中洲の屋台街をハシゴして、歴史や今を紐解いてみましょう!

 

中洲や屋台街のはじまり

そもそも中洲の屋台街はどんな場所なのでしょうか?テレビや写真などで、縁日の時みたいに屋台がズラっと道に端から端まで並んでいるのを見たことはあっても、なかなか歴史までは知らないという方が多いのではないでしょうか。

最近の都市開発では、中洲は商業施設やアミューズメント施設が並び立つ、福岡市中心部の一角として位置付けられています。

その華を飾るのが屋台街です。

那珂川を挟んで向かい側にある中央区の天神エリアにある屋台街は観光客向けで、中洲の屋台街は地元の人たちで賑わっていると言われています。

それもそのはず。中洲付近一帯は歴史的にも『町人』の町と呼ばれ、畑しかなかったと言われています。その名残が残っているのかもしれません。

そして、中州にある屋台街の起源は、戦後に残った人や戻って来た人たちが一からやり直すためにはじめた屋台にあると言われています。ただし、混乱を極めた戦後の世の中で屋台をはじめる人たちが後を絶たず、闇市が横行するなどし、GHQの指示により屋台は営業禁止となってしまいます。

それに反発した屋台業者の人たちは行政と交渉と交渉を重ね、遂に1950年代になってから正式に屋台の営業が認められるようになりました。しかし、それに便乗するかのように60年代に入ると、許可がないのにも関わらず歩道を勝手に屋台の敷地として使用する屋台業者が発生するなど弊害が出てきてしまいます。

そんな状態がしばらく続き、60年代には屋台街は最盛期を迎え、実に数百件の屋台が福岡市に並んでいたそうです。70代に入ってからは、都市開発などの影響を受けながらも営業を続けていた屋台ですが、やがて転換期が訪れます。

 

屋台は『原則的に一代限り』

正式に営業を許可したのにも関わらず、ルールを曲げて営業をし続ける屋台業者が多かったため、ついに行政が動き出します。90年代に入ると、新規に屋台をはじめようとする人たちを規制する『原則的に一代限り』のルールが適用されます。

この『原則的に一代限り』はその名の通り、創業者しか営業をする許可を得ることができません。しかも、屋台を営業する際に取得した道路使用許可証の名義変更を不可能にすることにより、高齢によって引退をし、暖簾を弟子や子供に引き継がせるということが事実上不可能になりました。

また、地域にある店舗型のラーメン店が、自分たちは決して安くない家賃を毎月払って営業しているのに、屋台だとそれに比べてかなり安い道路使用料を支払うだけで営業できることに不平や不満を抱いていたため、そういった意見も行政を動かすのに一役買うことになりました。

この決定がラーメン屋台を生業としていた人たちに与えた影響は大きく、当時はまだ数百ほどが営業していたとはいえ、最盛期に比べると半減していた屋台の数がさらに減ってしまうという事態につながります。

また、これは、観光名所である屋台は街の文化であると同時に、屋台から排出される生ごみなどの衛生面を心配した地元住民の声がぶつかりあった結果とも言えるでしょう。

 

西日本No.1の繁華街

こうして悲しいことに、衰退の道をたどりはじめた屋台街ですが、それでも中洲は『西日本No.1の繁華街』と呼ばれるほど成長した、歴史の生きる証でもあります。

屋台が増え続けると共に、日本全国に活気が溢れはじめた高度経済成長期。その時代の流れとともに、屋台が一番の目玉だった中洲に映画館が建設されました。しかも、その数は1軒だけではありませんでした。

人々が娯楽を嗜めるまで経済が戻ったことにより、行政がラウンジバーやキャバレーの営業を認めることになります。また、中洲も立地的に町と町の間にあって訪れやすいためか、仕事の後に同僚たちと疲れを労ったり、商談や接待をする憩いの場としてラウンジバーやキャバレーが密集するようになりました。そして小腹が空いたお店の従業員やお客さんたちにとって、屋台はもってこいの存在となったのです。

今となっては隣接する区域にデパート、商店街、ホテルなどの商業施設が建設され、中洲全体が商業地域として認定されるほどに成長を遂げました。

こうして中洲は『西日本No.1の繁華街』と呼ばれるようになったのです。

 

変わりゆく屋台街

こうした中洲の発展に加え、観光客から仕事帰りのサラリーマンたちまでが気軽にラーメンなどを楽しむことができる屋台街は博多の街の『文化』であり、やがてそれを衰退させないための動きが見えるようになってきます。

当初は屋台街の成長と拡大にともない対立することも多かった地元住民と屋台側でしたが、時が経つにつれ、地元住民も屋台街を『福岡の象徴として観光アピールする存在である』と認めるようになり、行政と屋台側が歩み寄って明確なルールの下、営業されることとなりました。

まず、その一環として『原則的に一代限り』のルールが廃止されました。これにより新規に屋台を出すことも可能となり、絶滅する運命にあった屋台に光が見えはじめます。

また、昔ながらの価格設定で常連客がいても一見さんに厳しくない『リアルとんこつラーメン』を提供している老舗の屋台とは別に、立ち飲み屋台、一品料理屋台、お茶ができる屋台、外国料理の屋台などといった、新世代型の屋台がどんどん登場します。中にはラーメン屋台なのにおでんが出てくる屋台もあるとか。

時代と共に押し寄せた規制の波の影響で、一時は最盛期の半数以下までに減った屋台も、新しい時代の訪れで最盛期の倍の数に増えるなど、今やひとつの立派な産業として成り立っています。

 

まとめ

みなさんが知っている屋台の歴史は古く、江戸時代に参勤交代で地方から江戸の城下町に訪れたお侍さんたちに軽食を提供していたのが原型と言われていますが、それを博多の街を象徴する文化にまで育て上げた中洲。

歴史を遡っていくと、戦後の何もない苦しい時期から現在に至るまでの『人の歩み』そのものとも言えるかもしれません。確かに、成長していく過程で問題がなかったわけではなく、その問題によって一時は『消えゆくもの』として運命が決まってしまったことも。

でも、やっぱり日本人はみんなラーメンが好き、屋台で食べるのが好きなのです。誰しも心の奥底には、屋台への愛着があるのではないでしょうか。

もし中洲に訪れる機会があった際には、ぜひとも老舗の屋台で歴史を感じながらとんこつラーメンを食べるとともに、新世代・新感覚のフレンチが食べられる屋台なども探してみたり、新旧ともに屋台の文化を楽しんでみてください!

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